「森田療法」という本を約3週間かけて読みました。
そんなに厚い本ではないので一気に読めば1時間ちょいとかで読めそうなんですけど、テキストと思ってメモを取りながら読んでたら随分時間がかかってしまいましたねぇ。
こんにちは、のえ(@noebox)です。
何故「森田療法」なんて本を手に取って読んだか。
それは私が「神経症」ではないかという自覚があるからです。
先に一言だけ感想を述べると…
これまで何冊かの自己啓発本を読んできましたがね。
一番先に読むべきはこれでしたね。
「森田療法」とは

森田療法っていうのは、平たく言えば神経症の治療方法のひとつです。
何故「森田」療法なのかというと、神経科医の森田正馬さんという方がこの治療法についての論文を書いたからです。
名前からそのまんまきてるんですね。
で、この論文ですけどなんと大正時代!のものになります。
その大昔の論文、治療法の解説書が未だに読まれているわけです。
この本の著者は岩井寛さんという方。
なんと、全身をガンに冒され目も見えず身体も動かすことができず、口述筆記でこの本を作り上げるというとんでもない離れ業をやってのけてます。
そして原稿が上がる直前に亡くなっている。
凄まじいの一言に尽きるんだけど、これこそが「森田療法」そのものだったのです。
病魔に侵され動けなくなり、これから死を迎える。
その現実を受け入れた上で、「本を出す」という目的を果たすために努力する。
森田療法ってのはそうゆう治療法なんです。
私の「不完全恐怖症」
数年前から私を悩ませていたのは、確認恐怖でした。
本の中には確認恐怖という言葉は出てこず、どうやら「不完全恐怖」というものに分類されるらしい。
強迫観念の数ある種類の中のひとつですね。

症状についてはこのブログでも1度書いたことがあるんですが…
再度、書きますね。
とにかく自分のした事は何度も何度も確認しないと気が済まない。
で、いくら確認しても「よし大丈夫」という確認が持てない。
例えば外出する時なら、家の鍵、エアコンのスイッチ、どこそこの戸は閉めたのか、ハルさんの小屋はちゃんと閉まってるかお水はセットしてあるかエサは入ってるか、冷蔵庫の扉はちゃんと閉めたかなどなどが気になって気になって車に乗る前に何度も家の中に戻って確認。
もう仕事遅刻するー!というギリギリの時間になって、やっと思いを断ち切って車に乗り家を離れます。
例えば、仕事で何か荷物を送らないといけない時。
中身は壊れないようにちゃんと包めたのか、入れ忘れた物はないか、送り状の住所は間違いないか…
気になって何度も箱を開けて確認。
いつまでたっても封がどきない。
やっとガムテープで封した!と思ったらまた不安になってガムテープ剥がして開けちゃう…
そうそう、伝票や封筒に宛名を書く時に字が震えてすごく下手くそに感じて何度も書き直すっていうのも毎度のことです。
これは強迫観念の中の「書痙」にあたるということもこの本を読んでわかりました。
確実に対人恐怖だなと思うところもあるし(コミュ障だもんね…)
あー、あと家を出る時だけ家具や物の位置のズレが気になって仕方ないっていうのもあるな。
書き出したらキリがないわ。
それでも幸い、日常生活に大きく支障をきたすところまではいってないんだけど…
仕事、遅刻したことはないしね。
(しかし友だちとの待ち合わせにはこれのせいでよく遅れる…)
これで相当の時間をロスしているのはわかってます。
おかしいですよ?私おかしいよなってのはわかってるんです。
わかっちゃいるけどやめられない。
私に限らず不完全恐怖に限らず、神経症の人は「私はおかしい」という自覚がありながらもやめることができない、というのがひとつの特徴だそうな。
心情を深くえぐる「自分の説明書」
本の構成をざっと紹介すると
- 森田療法の基礎理論
- 神経症のメカニズム
- 神経症の症状
- 治療法
- 日常での活かし方
こんな感じですが、単に「こうゆうもんでこんな症状あってこうやって治すよ」というだけの内容ではない。
何が原因でこうなった?
おかしいという自覚はあるのにやめられないのはどうして?
神経症ってのは生まれつきではなく、生まれてからの環境、家族や人との関わりなどが影響しながら形成されていくもの。
いつ、誰から受けた、どんな影響が関わってきているのか?
そんな自分でもよくわかっていない心のモヤモヤにピンポイントで「ここだよ、こうゆうことはなかった?こうゆうことよ」と解説してくれる。
記事のタイトルにも「自分の説明書だ」と入れましたけど、ほんとに自分の説明書を読んでるような気分でした。
まあこのモヤモヤの中には自分が思い出したくないとか、自分でも触れたくない、そうは思いたくないというところもありましてね。
そういう意味で、痛いところをえぐられたような気持ちにもなったというか…
読了後、記事を書くためにまとめるつもりでマインドマップを書いてるうちに、ほとんど封印していたような過去がチラチラと断片的に頭を過ぎり始めました。
その結果がこれですがね…察していただけたらと思います。

念のために書きますが、両親に対してどうこう思うことはありません。
両親はずっと大事な存在だし、対して歪んだ感情を持ってるつもりもないし普通に仲は良いんですよ。
そう。
親は娘のためと思ってやってくれていた事。
それもわかっているからこそ、ここは自分で一番触れたくなかった部分になってたのかもしれんよね。
「どうしてこうなった」の謎は解けてきた。
ちょっとスッキリしたかなあ。
向き合い、治すために
根本的な原因がわかっただけでも大収穫なんですが。 しかし過去は変えられませんので仕方ない。
じゃあこれから先どうしていくか。これが問題。
「かくあるべし」に「とらわれ」すぎて
人は誰しも不安や葛藤を抱えているもので、生きていれば様々な希望を持ち問題にぶち当たり、不安も葛藤も一生持ち続けるものだと思います。
それは神経症でもそうでない人でも同じだと。
逆にどんなことに対しても不安を抱かず何の葛藤もしないなんて人はいないんじゃないですかね。
じゃあ神経症の人とそうでない人の違いは何かっていうと、その不安や葛藤の末にどうするかってことなんですね。
例えば会議やら発表会で大勢の人の前で喋らないといけないとします。
誰でも緊張します。脚がガクガク震えるかもしれません。
どもったり黙り込んでしまったりしたらどうしようとか、不安になりますね。
そこで、その緊張や不安も抱きながらも大勢の人の前で喋り何かしらの結果を出すために頑張るのが、いわゆる普通の人です。
これが「目的本位」の行動です。
神経症の人はどうなるかというと、大勢の前で喋って結果を出すってことよりも不安や緊張を取り除きたい気持ちでいっぱいになります。
しかし取り除けるものではない。
なので、大勢の人前で喋ることを避けます。
悪く言えば逃げるわけです。
完璧にこなしたい、こなさなければいけないという「かくあるべし」にこだわりすぎるあまり、それによって生じる緊張や不安に「とらわれ」過ぎて本来やるべきことができずにいる。
それが神経症の人です。
…自分のことを振り返ってみるとすごく納得するわ。
自分が抱える不安のためにどれだけのことから逃げて、無駄にしてきただろうねぇ。
でも考え方を変えてみれば、それは向上欲が強いってことでもあるじゃない。
せっかくの向上欲、良い方向へ活かさないと勿体ない。
その不安に突撃してみる
私のような神経症さんに必要なことは、こういう誰もが抱いてあたりまえの不安要素を取り払わず、「あるがまま」として受け入れる余裕を持つこと。
受け入れた状態で、本来やるべきことを果たしていくことです。
具体的にどうするかというと…
私の症状から例を挙げてみると。
玄関の鍵をかけたかどうか不安になっても家に戻らない。
封をした後、中身を間違いなく入れたか不安になっても開けない。
何度も確認する=不安な気持ちを取り除きたいが為の行為ですからね。
なので、その不安を取り除く行為をやめてみるってことです。
不安に正面からぶつかってみる。
実際、何度確認したところで玄関の鍵はちゃんとかけてあるし、箱の中身だってちゃんと全部入ってるんです。
その時その時でちゃんと確認はしてるんだから。
一度きちんと確認したら、その後は不安でも二度確認しない
→その後、特に何の問題も起こらない
→「なーんだ、全然大丈夫じゃん」
これを繰り返して脳と身体に「一度確認すればOKよ」と覚えさせて、自信をつけていく。
荒治療っぽく聞こえるかもしれんけどそうするしかない。
たとえ飲み薬があって一時的に抑えれたとしても根本を変えていかなければ何も変わらんので、自分自身の行動改善していくしかないんですね。
よし、明日の目標は「二度も家に戻らない」だ。
まとめ
これまでいろんな自己啓発本を読んできて…
冒頭でも「この本を先に読むべきだった」と書きましたけど。
結局なんでそんなに自己啓発本を読むかって、「こうしなきゃ」「こうでないといけない」っていう気持ちが強かったからであって。
でも私の根っこは今日の記事で書いてきたとおりなので、結局上っ面だけを変えようとしてたんだよね。
もちろん先に読んできた本たちが無駄だってなんて風には思わないけどさ。
上っ面だけを改善してみても…
根っこがこのままなら、苦しいのは変わらない。
そうゆう意味で、これを一番先に読むべきだったなと思いました。
人一倍強いであろう向上欲を逆手にとって、良い方へ良い方へ自分を向けていくことができたら。
これからもいろんな本を読んでいろんなことを試していくと思いますが。
まずは神経症であるという根っこを変えていくということ第一でやっていこ。
では、また。