名画の足跡…豊川海軍工廠跡地をたずねて

愛知県豊川市には、かつて東洋随一の規模を誇る軍需工場「豊川海軍工廠」がありました。
終戦直前の空襲で動員されていた大勢の若い人々が亡くなった。
跡地は戦後工業地帯になり、自衛隊の駐屯所があったり大学の研究施設があったりします。

この跡地の一部が整備されて、昨年きれいな公園になりました。
それを聞いた時は「あ~、あの工場いっぱいあるとこですか」くらいにしか思わなくて、ただここの存在は決して知らなかったわけじゃないですけど特別来る用事もなかったのですよ。
車で通り過ぎるだけでした。

今になってどうしてそんなところへ足を運んだのかというと、この海軍工廠跡地は、ある映画のロケ地で使われているのです。
その映画は有名な監督の作品なんですが、それが跡地の一体何処らへんで撮っているのかっていうのが、ネットで調べてもわからなかったんですよね。跡地といっても広いんでね。

公園内の資料館を尋ねてみれば何かわかるかな?
そう思って、初めて行ってきました。

豊川海軍工廠平和公園

豊川海軍工廠平和公園ホームページ

駐車場はそれなりに広いので、平日なら余裕で停められます。
資料館に入る前に、公園内を散策。

これは当時の街路灯。

第三信管倉庫。もちろんこれも当時のままですが、きれいに残ってるもんなんですね。
コンクリート造りだから頑丈なんだね。

 

決まった時間に行くとボランティアの方の案内で中も見学できるらしい。
この写真は外の窓から撮りました。

こちらも当時のままの第一火薬庫。
その脇には、爆弾が落ちて破壊されたままの側溝が残されている。

 

一番驚いたのはこれ。

防空壕ってたぶん初めて見たんですけど、これで防空できるんですかというほどのちっちゃくて浅い…防空壕ってこんなもんですか。
ここはあんまり深く掘ると地下水が出てきちゃうからってことで浅く掘ってあるそうですが、これ何人入れるんだろう。
5、6人入れたらいい方じゃなかろうか。これは驚きました。

こんな感じで公園といっても遊具はひとつしかないですけど、子どもが走り回って遊ぶにはいい広さです。
危ないようなところもないし。

ではいよいよ資料館の中へ。
正確には「豊川市平和交流館」
中には写真資料や、当時工廠で働いていた人の日誌も展示されています。

日誌の中身を読むと、これは当時自分の思ってたことを思ったとおりに書くことができてたのかできなかったのかわかりませんけど、少なくとも私とは考え方が遠くかけ離れているなあと感じた。今は良くも悪くも個人主義で…ほんとにこんなこと考えてたのかなあって今の感覚だとそう思ってしまうのだけど、ほんとに考えてたんだろうし、そういう教育だったんでしょう。
読んでいて正直、怖いなと感じた。

さて、資料映像の上映をしますとのアナウンスがあり展示室から人が捌け始めたところで、受付の人に目的の映画の件について、訪ねてみました。

映画『悪い奴ほどよく眠る』のアジトはここ

冒頭で書いた「有名な監督の作品」は、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』
昭和30年公開の作品で、主演は三船敏郎。

 

この映画の終盤、三船敏郎と加藤武が志村喬を閉じ込める【アジト】が出てくる。
このアジトの外、豊川海軍工廠跡地で撮られているのです。

訪ねてみたはいいものの、実は出かけたついでの思いつきで来ちゃったので、映画の画像もスマホに入れてなかったんで詳しい説明のしようもない。

係の方が「この前もそんな話になって…」と。
でも結局何だったんだっけなあと。笑
その時も結局わかんなかったらしく。

係の人「…田宮二郎が主演でしたっけ?」

のえ「!?いや…三船敏郎です(何の映画と間違えてるんだ…?)」

ロケ地の詳細は結局わからなかったけど、係の方がとても親切に対応してくださり、1時間くらいマンツーマンでいろんな資料を見ながら説明してくださいました。

この工廠は本当にデカくて、広い広いとは思っていたけども実際きちんと確認してみると本当に広い。
約100万坪、一周すると7kmもある。来てみればわかりますけど、豊川のイオンの辺りからずっと西へ走りブックオフがある辺りの交差点まで、ずーっと工廠の敷地である。とにかくめちゃくちゃ広い。

海軍工廠は終戦直前の空襲で破壊され瓦礫の山となり、その後昭和37年に条例で工場が建ち始まるまでそのまま放置されていました。昭和30年頃は、その瓦礫の山の中に爆弾の破片がいくつも転がっていて、子どもがそれを持ち帰っては怒られたという、映画が撮られたのはそんな頃です。

その瓦礫の山な光景が見渡す限り広がっていたわけだから、どの辺りで映画を撮ったか特定するなんてことは、やっぱり難しいんだね。

話の中で、田宮二郎が何かの作品でロケ地に来ていたこともわかった。田宮二郎ほんとに来てた!
でも何の作品なのか、もう本人に聞けないのでわからない。田宮二郎の親族の方が昨年みえて、そんなお話をされていったそうです。

それから昭和43年公開の『黒部の太陽』のトンネルセットは、この海軍工廠跡地内にあった熊谷組(現テクノス)の工場内に作られ、ここで撮影されています。

 

それからもうひとつ、旧作邦画が好きな身としては、驚く話が聞けました。

佐田啓二の勤労動員のはなし

工廠の航空写真を見ている時、係の方がボソッと「中井貴一さんのお父さん…」とつぶやいた。

「えっ。佐田啓二ですか?」

「そう、佐田啓二…中井寛一さん。あの人もここに来てた」

「えーーー!!それほんとですか」

佐田啓二とは俳優・中井貴一のお父さんで、戦後の映画黄金期を支えていた二枚目大スター。
めちゃくちゃ男前なのである。
「中井寛一」は、佐田啓二の本名。

一番有名な出演作はおそらくコレ。

早稲田大学2年生の時。もちろんまだ俳優デビューする前。
勤労動員で豊川海軍工廠で働いていたそうです。
この平和公園には当時勤労動員で働いていた人たちがよく訪れるそうですが、皆さん佐田啓二がここにいたことを知っているそうで。

豊川ってのは昔はド田舎でした。
東京の、しかも早稲田の学生さんってのはちょっとリッチな風に見えたそうで。
グローブなんかも、見たことないようなしっかりした物を持っていて、それでキャッチボールしてたりなんかするんで非常に目立ったらしい。その上あんな男前とくればそりゃあ目立つと思う。
盲腸になって病院に入院したというエピソードも教えてくれました。

あの佐田啓二がここにいた。
私の地元の人たちも多く動員されていた場所で、佐田啓二も一緒に働いていた。
これはちょっと衝撃の事実でした。ロケ地のことはわからなかったけど、これを知れただけでもねぇ。
来てみて本当によかったと思った。

空襲があった時、佐田啓二がここにいたかどうかはわからないとのこと。
だけど早稲田の学生さんたちはその空襲でたくさん亡くなっているので、もしかしたら個人的に休暇か何かで東京に戻っていた可能性もある。

大勢亡くなっている中こんな言い方をしていいのかわからないけども、佐田啓二、無事でいてくれて本当によかった。
もしここでダメになってしまっていたら、俳優・佐田啓二は存在しなかったし、俳優・中井貴一もいなかった。

まとめ

これまで知らなかった事実をたくさん知ることができて、私はだいたい部屋にこもって一人で調べものするような人なんですが…やはり自力で行けるところは直接出向いて、直接話を伺うことも大切なんだと学んだ次第。
私ひとりのために時間を割いて説明してくださった係の方に感謝です。
本当にありがとうございました。

映画に関することだけでなく、工廠としての歴史にも非常に興味が沸きました。
もう今年は終わっちゃったんですが、毎冬通常は入れないゾーンを見学できるイベントもやっているので、来年はぜひ行きたい。
ちなみになんで冬だけかというと、夏場は草ボーボーのためとても入っていけないそうです。

実はこの後日、映画の画像が手がかりとなってロケの場所がわかりました。
この話は映画の感想文を書く時に付け足そうと思っています。